2006年09月25日

言葉遊び。

 久し振りに猫の子みたいな金にも食にもならんことについてだらだら考えたので備忘録程度の心構えで書き留めてみる。
 因みに何の話だか良く解らない人は「坂東眞砂子 子猫殺し」でぐぐればもうお腹一杯、と言うほど知れると思う。知りすぎてこの上私の駄文など読む必要は無いと思われる可能性すらある。
 読む価値も整合性も無い独り言だしね。

 それは兎も角。

 そもそも猫の生殖を人間がコントロールする事は果たして本当に「不自然」で「許されない事」なのかを考えてみよう。
 猫の生殖をコントロール、この場合は「不妊手術」か「堕胎」に限らせていただく。産まれた子を「間引く」ことは「既に猫として存在してしまった個体に危害を加える」ことであるのでどちらかと言えば「忌避できた筈の不必要な殺害」としたい。
 これ前提でお願いします。早産と何処が違うのかわかんねえよって位ギリギリの堕胎とかは定義してると眠れなくなっちゃうから考えない方向で行こう。

 んでまた最初に戻るのですけれども、さて「猫に避妊を施すのは不自然な事であるから妊娠するまま、出産するままにするのが正しい事である」と言うのは妥当だろうか?
 これを妥当と言う為には、「人間による不妊手術は自然なことではない」という前提が必要になる。
 私が疑問に思うのは正に此処で、人は人の社会の中では確かに「野生動物」ではないけれども、もっと大きな視点に立てばどうだろうか。地球という星に広く分布するホモサピエンスという種類の動物であるとは思えないだろうか。
 このホモサピエンスという動物は基本的に食物連鎖の頂点に立ち、他の動物とは異なる高度な知能を持っている。そして他の動物達を飼育使役、または保護する習性を持つようだ。
 此処まで書いたらどうだろう。何となーく「人間が何をやってもそれはやっぱり自然の中の営みなんじゃねえ?」って感じにならないだろうか。ならなそうだな。でも私はそんな風に感じる事が多いのですよ。
 例えば昆虫でも魚でも哺乳類でも、自分とは違う種類の動物を上手く使って生活する事は珍しくないようです。双方に利益があれば共生というし、片方にしか利益が無ければ寄生とでも言うのかな?
 人間はたまたま他の動物よりも脳みその皺が多かったので「あれもこれも他の動物にやらせれば便利じゃん!」と気が付いたりした。更に「肉とか自分で育てちゃえば狩する必要ないじゃん。やべー、俺頭良いー」って状態になった。
 此処までは多分、自然の範囲内なのだと思う。人間と言う種類の生き物にとって食肉用、或いは労働用に人類ではないものを使用するのは有益だものね。
 尚且つ人間には愛情とか愛着とか呼ばれる感情があって、長年自分に尽くしてきた動物を慈しんだりするようになっちゃったりして、それが多分ペットの始まりなんじゃないかと思うんですけどさて、ペットは不自然な事だろうか。
 人間が「他の動物を容易に管理しうる能力を持ち、また他の動物と共に暮らす習性を持つ」場合、単に愛玩用に何がしかの生き物を傍に置くのは「不自然」な事だろうか?
 まー現実的に「他の動物と共に暮らす習性」なんか持ってないけどね、多分。でも例えば宇宙人なんかが人間を見たら、ペットを飼う世帯の多さにビックリして「これは習性なんじゃないか?」って思う可能性も有る。
 要は人間が何をやったってそれはもう「自然の営み」の範疇なんじゃないかと。核を作って落としても海を有害物質で七色に染めても、其処に生息する動物の行動に過ぎない。ちょっと行動の規模がでかすぎて多くの同族と無関係の動植物を巻き添えにするけど。
 そこはそれ、隕石が落ちたとでも思えば。
 人間は「考える」事が出来る故に、また、自分と自分以外の動物達とのあまりに大きな隔たりを感じるが故に自分の事を自然ではないと思いがちだけど物凄く長い目で見ればそんな事はないのでは。
 此処まで栄えた以上、ひょっとしたら人類は地球の終わりまでこの星の中で頂点に君臨するかもしれないし、最悪地球が終わる頃には水星とか火星に住んでるかもしれないけどそれでもやっぱり「銀河系に生息するホモサピエンスと言う種類の生き物」でしかない。
 なんつーか、こういうこと。(最初からこれでよかったんではないか)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%A1%9E

 で、自然の生き物であるホモサピエンスが飼い猫に不妊手術をした場合、それは多分猫にとって「怪我や先天性疾患によって生殖能力を無くす」ことと大して違わないんじゃなかろうか。
 この二つの間に明確な差を見出すならばそれは「人間に便利なように」という意思の有無であって、ぶっちゃけ意思が有ろうが無かろうが当の猫には関係ないことだけは確かだよね。
 更に言えば「自分の都合が良いように多種族の不利益を実行する」生き物は別に人間だけじゃない。
 カタツムリに寄生する虫は「ああ、私が生きる為とは言え罪も無いカタツムリを操って鳥に食われるように仕向けるなんて、無慈悲! 鬼畜!」とは思わないだろう。
 この寄生虫と人間の間にある差は「罪を罪として認識する」意識があるかないかだけであり、それこそ意思の有無の問題。
 この件に関しては多分「罪深い」と思うから罪深いのだし、「不自然だ」と思うから不自然なんだろう。「善い」とか「悪い」とかそういう基準をあてはめる種類の問題では無いとすら言える。
 当たり前っちゃ当たり前ですけどね。

 んで長くなりましたけど、そういう事を踏まえた場合「猫に避妊をするのは不自然で可哀相だからしたくないけど生まれた子猫は育てられないし邪魔だから、殺すよ」って考え方や行動は妥当なのかと。
 崖下に放られても多分直ぐには絶命しないでしょう。一日、或いは二日、もしくは数時間。
 死に至るほどの傷を負って苦しまなければいけない必要は何処にあるのか。その正に「死ぬほどの痛み、苦しみ」は「子供を産めなくなるなんて可哀相だ」という感傷や「私は全ての苦しみを引き受けている」なんて自己陶酔と果たして釣り合うのか。
 天秤は、どちらに傾いている。
 私自身のこれも感傷である事は認めますけれども、ただ「苦しんで死ぬためだけに生まれた子猫」などこの世の何処にも存在して欲しくないのです。


 小娘が書いた青い主張みたいな感じがする。恥ずかしいな。でも人間の本質なんか変わらないよね。五十代になったって多分私は「実は自分サトラレだったら生きていけねえ」とかって妄想して悶えると思うよ。
 そして「虐待されて死ぬ子供」のニュースをみて憤るよ。十代の偽善的な小娘みたいに。でも其れはあんまり悪いことじゃない、と、思うのですよ。何時までも若々しいって大事よね!(物は言い様)


posted by こがよしひさ at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考嗜好志向 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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